lost 08 闇夜の来訪者 2

あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。沙智はずっと大木のそばにいる。今日は修学旅行ということもあって早く起きたため本来なら睡眠が欲しくなる時間帯だが、先ほどの眠った効果なのか眠気が目立って感じられない。バスで寝てしまって以来8時間くらいは眠っていたはずだ。今晩くらいは眠らなくてもどうにかなるだろう。
第一、こんな状況でのんきに寝ていられるほうが間違っている。いつ誰に襲われるかわからないこの状況で安心して眠ってなどいられるわけがない。眠っていたら誰かに襲われても気づくのが遅れ、最悪の場合気づかないまま殺される可能性もある。
だが、いくら睡眠をとったとはいえ夜になると少なくとも眠気は出てくる。体内時計が睡眠の時間だと体に教えているのだろう。時間帯から考えて、普段の沙智なら熟睡している頃なのだから、少々の眠気は当然だ。
それでも、寝るわけにはいかない。
この与えられた時間で裕香たちにあう方法を考えなくてはならないのだ。不可能だと思われても、諦めるわけにはいかない。このゲ―ムは絶望を考えてしまったら終わりなのだ。心の奥底に出来た絶望の中から、延々と恐怖が湧き出してくる。恐怖に耐え切れなくなり、自分を忘れた殺人鬼と化すかもしれない。死ぬと分かっていても、それだけは避けたい。
確かにこの戦場で死に、後悔を残さないことは不可能だろう。人間は常に永遠に生きていたいと思っている。楽しいことや苦しいこと、悲しいなどといった感情をを永遠に感じ、その感情を失いたくないと思っているのだ。
それは、沙智も同じだ。
この戦場の中、沙智だってクラスメ―トだって、たかが政府に未来を奪われて、後悔や悔しさを感じずには死ねないだろう。だが、生き残るために自分を忘れてしまい、なぜ死んだのか、自分は何をしていたのだろうか、と今まで生きていて感じたことすべてを忘れてしまうのは絶対に嫌だった。
だからこそ沙智は最後に友達に会い、こんな状況でも話をしたかった。
それが、沙智が言える最後の我侭だった。
最後なのだから、こんな簡単な我侭くらい神は聞き入れてくれるだろう。聞き入れてくれなくとも、自分でどうにかするつもりだ。
「みんな、生きててね――……」
沙智は1人でそうつぶやいた。闇は相変わらず周囲に漂い、沙智を孤立した空間へといざなっている。あたりに人の気配は無い。今晩くらいなら無事に過ごせそうだ。そう思いかけた――その時だった。
かさ、と雑草の揺れる音がした。
「……!」
突然の状況に沙智はすぐさま警戒態勢をとる。
その音は、明らかに風や虫などによる草の動く音ではなかった。虫や風とは比較にならないほど大きい音――人が動き回っている音だった。
沙智はデイパックを無理に背負い、トンファ―を構えて慎重に立ち上がる。
大木と背中合わせのまま、音のする方向を探り当てようとするが、精神を集中すればするほど前後左右、あらゆる方向から音が聞こえるように感じる。敵は1人のはずなのに、何人もの敵に囲まれているような気分だ。
音は、だんだん大きくなっている。敵が近くなってきている証拠だ。
徐々に距離を縮めてくる敵に対し、沙智はようやく敵のいる方向を割り出した。
沙智にとって完全なる死角の位置――後ろだった。
最悪の位置だったが、最高の位置でもあった。
自分の存在が気づかれた場合、最悪相手の一撃をくらい、状況的に不利になるかもしれない。だが、逆に沙智の存在に気づかずに通り過ぎてくれる可能性も高い。
沙智は、戦闘体制に入りながらも自らの存在に気がつくことなく通り過ぎてくれることを祈った。
音は、距離を縮めている。
敵が、沙智へ近づいてきている。
沙智の心臓は音がするたびに跳ね上がったが、どうにか自分を落ち着け、敵が過ぎるのを待った。
だが、敵はなかなかこの場を過ぎてくれなかった。こんな状況だ。相手も回りに細心の注意を払っているのだろう。異常なほど歩みが遅い。
――早く過ぎて……!気づかないで……!
沙智はただ祈るしかなかった。その間も息を殺し、できる限り自分の存在を隠した。
相手が女子ならば説得も出来る。だが、もしも男子だったら問答無用で襲ってくるだろう。そうなったら戦うことを選択するしかない。
本当なら誰にも手をかけたくないが、状況が状況なら仕方が無い。
音が、さらに近くなった。
敵はすぐそこまで来ている。
トンファ―の取っ手を握る手に力がこもった。これが自分の命綱だ。最悪の場合、これで相手を気絶させてその隙に逃げるつもりだった。いくら殺人鬼と化したクラスメ―トでも、沙智には殺せない。昨日まで一緒に生活してきた仲間だ。躊躇なく殺すことなどできるはずがない。相手の武器が銃器類でなければ、逃げる隙は出来るはずだ。
沙智はほとんど呼吸をしない状態で、相手が過ぎるのを待った。表面は冷静だが、内心は本当の緊張と恐怖で支配されていた。
かつてないほどの緊張と、敵に対する恐怖。
多分これが生まれて初めて感じた“本当の恐怖”だろう。今まで感じた恐怖は心からではない。心の表面が恐怖を感じただけに過ぎなかった。だが、今感じている恐怖は心の底まで感じる、心を支配されるような恐怖だった。
敵はすぐ後ろまで来ている。
大木をはさんでちょうど真後ろを今、クラスメートの誰かが歩いているのだ。
――早く行って……!
沙智は祈り続けた。だが、それに背くように敵は歩みを早めようとはしない。
その時、1羽の鳥が大きな羽音を立てて沙智の真上に広がる大木の枝から灰色の空へと飛び立った。
「ひっ……!」
思わず声を上げてしまった。静寂すぎるこの空間では、声はよく通り過ぎるくらいだ。今の声で明らかに相手に気づかれただろう。
今更遅いことだが、沙智は息を殺し、再び相手から身を隠す。
だが、身を隠すには時が遅すぎた。すでに相手は沙智の存在に気がついている。
「誰か――いるのか!」
敵が沙智に向けて声を放った。その低い独特の声、顔を見なくてもその人物は容易に特定できた。
その人物――加島強(男子3番)が、沙智のすぐ後ろにいる。
最悪だった。
強といえばクラス一の不良で、三田健太(男子16番)とつるんでいる喧嘩っ早い男だ。がっしりとした体型で、生徒はおろか教師ですら彼を恐れている。そんな相手に運悪く出会ってしまった。しかも、人を殺しても罪にならないような状況の中で。
「おい! いるなら出て来い!」
強が怒鳴った。
出て行かざるを得なかった。強の支給武器が銃でさえなければどうにかなるはずだ。
「……」
沙智は、無言で強の前に姿を見せた。
強はすぐに沙智の顔を懐中電灯で照らしてきた。そのまぶしさのあまり、沙智は思わず目を細める。
「んだよ、宮原か……」
強はようやく目の前にいる沙智を認識したようだった。1度舌打ちをした後、強は沙智の全身を懐中電灯で照らしながら見回した。
「……」
お互い何も言わない。何も言わない中、強は沙智の持ち物を外面だけ確認する。
「お前――それが武器か?」
強は沙智の武器が目に入ったようで、握っているトンファ―を指差してそう言った。
「そうだけど……?」
「じゃあ、俺のほうが当たりだな。俺はこれだぜ?」
そう言って強は暗闇にまぎれて見えなかった手に握られている武器を上に上げ、懐中電灯で照らして見せた。
それは最初、懐中電灯の光を受けて反射しているためか光っているように見えた。手に握られているそれ――果物ナイフらしきものが強の武器のようだった。
助かった、沙智はそう思った。
もし強の武器が拳銃だったら沙智はすぐに踵を返し後ろへ逃げていただろう。確かに自分の武器のほうが外れだが、使い方しだいではトンファ―でもナイフに勝てるはすだ。
だが、それでも安心は出来ない。相手は強だ。沙智と同じくらい――あるいは沙智以上の力と運動能力を備えている。勝てるかどうか分からないが、やってみるしかない。沙智は、警戒心を強めながらも強をにらみ続けた。
まさにその時だった。強が突然、ナイフを振り上げて襲ってきた。
「――!」
間一髪だった。
瞬間的に沙智はその場から1歩後ろへと下がり、ナイフを回避したが、強が振り上げたナイフはよける寸前まで沙智が立っていた場所に下りてきていた。
沙智はすぐにデイパックを強の足元にに放り投げ、その隙に崩れた体制を立て直す。
「ちっ……」
強は舌打ちをし、すぐに2発目を沙智に向けてきた。
先ほどは上手くよけられたが、今度はよけられなかった。よけられるほど余裕がなかったのだ。トンファ―で受け止めるわけにもいかない。こんなもの、あの鋭利なナイフなら簡単に真っ二つだ。今の状況では役に立たない。
だが、大人しく刺されるわけにもいかない。沙智は瞬間的に次にすべき行動を決断した。
強の手の位置を見た。ナイフを握り、まっすぐ沙智に向かってくる手。それの位置を正確に把握し、狙いを定める。
沙智は足を振り上げ、強の手の中にあるナイフを蹴り飛ばした。
ナイフは宙を舞い、小さな音を立てて地面に落ちる。
「ってえ!」
強は痛みのあまり手を抑えていた。手に集中して、沙智から目が離れている。その隙に、すかさず沙智がトンファ―で脇腹を殴る。
「――っう!」
強が悲鳴になりかけた小さな声をあげた。かなりの痛みを伴ったようだが、それでも沙智は油断せずにもう一度、今度は腹の中心をトンファ―で殴った。
「……がはっ……!」
強は腹を抑えたまま地面に倒れこんだ。沙智はすぐさま踵を返し、逃げようとした。
逃げようとしたが――足に何かが引っかかり、沙智も強と同様に体を地面に叩きつけられた。
すぐに足元を見ると、細い木の根がちょうど沙智の足に引っかかっていた。動き回っているうちに少しずつ絡んできていたのだろう。足の表面を覆うほどの量が沙智の足を掴んでいた。
沙智は木の根をはずそうとしたが、逆に複雑に入り組んだ木の根と雑草が絡まってしまい、思うように外れない。立ち上がろうとしても、足に上手く力が入らない。
――早く外れて……! あいつが来ちゃう……!
焦れば焦るほど木々の絡まりは複雑になる。そのうえ視野が暗いため、どこにどう引っかかっているのかを正確に見ることが出来ない。
「はっ……てめえ……!」
沙智がその声にはっと気がつくと、強が引きつった顔をしながら立ち上がっていた。
地面に落ちたナイフを拾い上げ、沙智のほうへ腹を抑えながら向かってくる。
「おらあっ!」
強は、沙智に向けてナイフを振り下ろしてきた。
「――きゃああああっ!」
強のナイフは沙智のほうへ向かってくる。だが、足を封じられた沙智は身動きをとることが出来ない。
ナイフが地面に突き立てられた。
その場所に、沙智はいない。
沙智は足を封じられた中、持ち前の反射神経でその場からどうにか横に転がってナイフを回避していた。それでも足が取れない以上、刺されるのは時間の問題だった。
だが、幸いにも強が地面に刺したナイフは思いのほか深く刺さってしまい、抜けなくなっていた。硬くなった地面はなかなかナイフを開放しない。
強はそのナイフを抜こうと必死になり、再び沙智から目が離れていた。
それは不幸中の幸いだった。
強の集中がナイフに向いているなら、そのうちにこの足をどうにかしてしまえばいい。
沙智は強に気づかれぬよう慎重に体を起こすと、足の雑草をどけ始めた。
余裕を持ってやると意外と簡単な構造で、足はすぐに外れた。先ほどは焦っていたから出来なかったのだろう。常に冷静を保つことが大事だと今ほど思ったことはなかった。
「……ふんっ!」
強が一声上げ、渾身の力でナイフを抜くと、ようやく土の下からナイフが姿を現した。
それはちょうど、沙智の足が解放されたのとほぼ同時だった。
沙智はすぐに立ち上がり、脇に挟んでいたトンファ―を持った。強はまたすぐに襲ってくるだろう。
このまま踵を返し、逃げても良かったのだが、女子と男子では短距離のスピ―ドの差は知れている。沙智の短距離のタイムでは強にあっという間に追いつかれてしまう。
だから、ここで始末をつけておく必要があった。
殺すのではない。ほんの数十分気絶させるだけでいい。
怖かったが、この先もこのようなことは続く可能性がある。多少戦いになれておく必要があるはずだ。
確かに強はクラス1の不良で喧嘩も強い。だが、喧嘩というのはただの殴りあいだ。相手が殴ってきたら自分も殴る。その単調な動作が続くだけだ。沙智の習っている空手とは全く違う。
沙智には強に勝つ自信があった。
男子と本当の殴り合いをするのは初めてだが、今まで板だって瓦だって割れた経験や、自分より身長が何十センチも上の人を倒したことだってある。
――絶対に、勝てる。
沙智は確信していた。
だからこそ逃げなかった。逃げても無駄。ならば、選択の余地が残されていなかったというほうが正しいのかもしれない。
強がナイフを構えた。
先ほどとは違い、目が本気だった。
目線だけで気圧されるような圧倒的な空気が強の周りを渦巻いているように見える。
「……今度こそ、お前には死んでもらう」
強が言った。
「……私は絶対に負けない。ここで死ぬわけにはいかないから」
「そうか、俺もお前になんか負けられない……いや、お前みたいな女に負けるはずがない。」
強はそういうと、沙智に向かってきた。
強の握っているナイフは沙智の頭に向かっていた。鋭利なナイフの先端が物凄いスピードで沙智との距離を縮めてくる。
沙智はしゃがむような体制をとり、ナイフをよけた。
そして、すぐに立ち上がり反撃をする。
トンファ―を腹に殴りつけた。先ほどと同じ戦法だが、同じ場所に何度も攻撃を食らうのはいくら強とはいえきついはずだ。これなら強にもダメ―ジを与えられる。沙智はそう考えた。
だが、強はあまりダメージを食らっていない様子で、すぐに2発目を出してきた。
「うそ……!」
沙智が声を上げると同時に、今度は沙智の腹の辺りにナイフが向かっていた。
強の忍耐力に驚き、沙智は一瞬思考が麻痺したためによけきれなかった。
沙智はとっさにトンファ―で向かってきたナイフに対して垂直にたたきつけた。意思が働いたのではない。体が無意識に動いていたのだ。
ナイフに急激に重圧が加わったせいで、強の体は前へよろけ、体制を崩した。
「はあっ……!」
瞬間、沙智が強の後頭部に渾身の力を込めてトンファ―を振り下ろした。
「――ぐはぁっ……!」
強はそのまま地面に倒れこんだ。沙智はまた強が起き上がってくるのではないかと思い、トンファ―を握り締めてその場に止まっていた。
「……」
強はぴくりとも動かなくなり、完全に気絶していた。
――ふっ、と体から力が抜け、沙智は地面に座り込んだ。
気がつけば、かなり息が上がっており、マラソンをした直後のように足が硬直してしまい、全身に力を入れても立てなかった。極度の緊張が急に引いていったため、体をコントロ―ルできなくなったのだろう。
さらに、精神だけではなく本当の戦いをしたのはこれが初めてだったため、体力的にもそうとう体には応えていたのだろう。
すぐ横には、ほんの数十秒前に自らの手で気絶させた強の姿がある。
「……ごめん」
意識を失って、何を言っても応対できない状態の強に、沙智は一言謝った。
気絶とはいえ、これは自分がやったことだ。たとえこの状況だからといって、沙智にとっては罪悪感があった。
悪いのは最初に喧嘩を売った強なのだが、結果的には強を傷つけてしまった。沙智はそのことでこの件はすべて自分が悪いと思いこんでしまったのだ。
誰から見ても強が悪いというだろう。だが、沙智はもともとの性格からそう自分で判断してしまった。
沙智は、常に相手を考える性格だった。
例えば自分と友達が絶体絶命の状況なら自らを捨てても友達を助ける。日常でもそれと同じように相手を常に優先に考えて生きてきた。
強に申し訳ないという罪悪感の気持ちを持ったのも、沙智の性格が影響していた。普段からそういう性格だからこそ、この状況の中でもそう思えたのだ。
だが、ここでぐずぐずしているわけにはいかない。
強が現れたのと同様にまた新たな敵が現れるかもしれないからだ。今回は勝てたが、次に勝てるという保障はない。早めにこの場を去らなければ強が目覚める可能性もある。最悪、先ほど強と戦っていたときの声や騒音を聞きつけてきた誰かがやってくるかもしれない。
沙智は地面に転がっているデイパックを拾い、無理に背負うと移動を開始しようとした。強が落とした懐中電灯を拾い、ポケットにしのばせて常に光源を使えるようにする。
「ふう……」
一つため息をつき、沙智は前へと1歩踏み出した――その時、また人の動き回る音がした。
極限の緊張から開放された沙智の体を、すでに再び恐怖と緊張が束縛し始めていた。



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